久しぶりに昔つくったポートフォリオサイトを更新したくて開発環境を作り直した。ChatGpt もあり少し格闘して開発環境はできた。ワードプレスの子テーマが Git のサブモジュール扱いになってしまいそこで少し躓いたが、git のキャッシュクリアコマンドを AI に出してもらい解決した。HTML とか CSS を昔はちまちまと書いたものだがいまとなっては単にめんどくさい。デザイン渡したら勝手にコーディングしてほしい。CSS も自己管理するリソースないし ChatGPT でうまいこと整理した方がいいかも。Open InterPreter とかで作業した方がいいかもしれない。
1 人で PC に向かってコードをいじって何か作ったりしているのは落ち着く。クライアントワークでもなく気楽にやるのがいい。
キルケゴールの死に至る病。別で再度整理したいが、ソクラテス的な罪の定義に関する章が少し理解度上がった。
- 人が正しいことを知っていてその上で意志的に不正を行う場合について、ソクラテスの罪の定義では規定できていない、と述べられる。
- 不正行為の罪は認識にあるか意志にあるか。ギリシャは認識に、キリスト教は意志に、罪が存すると考えるという整理がされた。
- 認識、意志、行為
- 理解しているか否かは、認識を確認するか、行為を確認するか
- キリスト教を異教徒から区別する決定的な要素は罪の概念である。
- キリスト教的なもの、つまり、罪とは何か?これは人間には理解できない。神的な領域については人は理解できず、神の側からの啓示によって人に明らかにされる。人は人間的な領域についてだけ理解可能である。
- 神の側からの啓示によってのみ人は罪の概念を知る。この命題により、躓きの問題が発生する。罪を知っているという素朴な誤解が生まれる。
- この章で示される罪の定義は、神の啓示で罪について知ったにもかかわらず意志的に信仰に背くことが罪である、と言い換えられる。(自己自身であろうとしない弱さの絶望や、自己自身であろうとする強情によって信仰に背く)
- 我思う故に我あり。思惟が存在。これに対して、信仰が存在であると主張する。
- 知っていてあえて、というところ、つまり意志に罪かどうかが関わっている。
- ソクラテス的な罪は無知つまり認識が罪か否かに関わる、これとの対比をつくっている。
もう眠い、まだ書きたいけど、明日は仕事だ。4 時だ。寝る。