超複製技術時代の芸術 表参道 gyre
価値の概念を操作する内容の作品が多かった印象。フィジカルアートと NFT 化されたデジタルアートどちらを評価するか、NFT が保証する所有の価値を否定するような仕組みが組まれたら NFT アートには価値があるのか、作品の永続的な価値を否定するために滅びを入れる、など。現代アートってこう言う手法使うよねというパターン。パターンで見てしまっているのか、実際に手法がパターン化されているのか。
アルゴリズム絵画とデジタルアートの流れとか見せたり。
プログラムで作成したイメージを 3D プリンターで彫刻にしているのはちょっと面白いと思った。イメージの内容よりテクノロジーの用い方がおもしろいということだけど。
デジタルデータと 3D プリンターという技術の組み合わせには可能性を感じる。ソフトウェア+ハードウェアを動かして絵画とか彫刻を作る。3D プリンターを自宅に導入するにはいくら必要なんだろう。こういう方法でものつくってみたいという好奇心はある。
展示行くだけでは、全部は捉えられない。作品リスト持って帰ったから、また読んでみる。
複製技術時代の芸術、というテーマでどういう議論の積み重ねとか文脈があるのかほぼわかっていないから、そこがわかると別のことを思考できるようになるかもしれない。
礼拝芸術の時代 → 複製技術時代の芸術 → 生成技術時代の芸術
複製ではないという考えを前提に生産された芸術作品が AI により生成可能な芸術作品と差がないとなると、人間であること、オリジナルであることはさらに批判可能になる。機械的に生産されたイメージを機械的に制作する作家はいた。むしろ作品の製造は機械的に行うのだから作家は手を動かさない。職人的な技術や方法の対極としての現代アート作品制作の方法がある。人間批判、作家批判。作家批判という作家性。あぁ、つまらない話。作家批判という機能では複製技術も生成技術も同じくらいのものかもしれない。つまり生成技術が登場したからオリジナリティーや作家性が否定されるのではない。それはすでに複製技術によって行われた。
脱線 1
制作者が表現から人格を消去していく現代美術の傾向に対して、人格から生まれるストーリーが魅力になるジャンルは多い。むしろ後者がエンターテイメントの主流だと思う。ラッパー、MMA ファイター、Youtuber。こういう人たちは自分のキャラクターと人生のストーリーをコンテンツにしている。それがおもしろい。
脱線 2
技術は進化するが人の脳は進化しない。
このことを踏まえて芸術についても考えるべきだ。美術家は新しいことよりも古いことを追求する。古層に辿り着くための探究をする。それを自覚しているアーティストが自分は良いと思う。まず無に向かい、そこから生成する人たち。そうでないと既成のイメージと言葉に飲み込まれるだけだ。その上で進化した技術や方法を取り入れるべき。技術や方法の側面だけみてもつまらない。それなら工学としての評価だけをした方がいい。