ダミアン・ハーストはコンテンポラリーアート界の主要プレイヤーとしてセンセーショナルでクールな作品をつくっていたイメージだったが、それを裏切るような、ベタなペインティングを制作し展覧会をしていた。一周回って意外とかっこいい絵へのチャレンジなのではないかと思った。
絵画をどうみるか
絵自体のテクニカルな面よりは制作の背景に目を向けたほうがおもしろい絵だと思う。なぜ、ハーストはこんなばかみたいにでかいだけの桜の絵をいまさら描いているのか。
ハーストは桜シリーズの原点は母が描いていた桜の絵であるとインタビューで言っていた。この原点が背中を押してくれたとも言っていた。ミニマリズムに影響を受けた機械的な印象の作品群と比較すると桜シリーズはかなり率直な感情的で感覚的な表現の作品になっている。ハーストくらいのアーティストだと安直に絵画を発表するのはキャリア的にリスクだったのかもしれない。しかし今なら描けたということだと思う。作家の制作歴の中でこのタイミングだからこそ、素朴な表現も恐れずやれる自由さとして良いものに見えてくると思った。「画家にリスクはない。リスクは観客にある。」
たくさんの桜の絵の中で重要なのは最も大きな作品だった「この桜より大きな愛はない」である。ハーストがモチーフにしている桜は母であり自然であり、それは大きなものである。野暮といえば確かに野暮だがストレートに大きなテーマに向かっていて良いと思った。自分より大きなものに向き合わない作品はつまらないから。観客を圧倒するスケール自体が表現上、必要で、重要だったのだろう。
個人的に少し前に病気の母のために絵を描いた。この経験はハーストの桜の見方に影響していると思う。絵を制作することと母親は何も関係がないようで、実際には深く関連していることもあるし、母との関係で絵を描くことになることもある。ハーストの絵も原点とのつながりで絵をみると無駄にでかいスケール感に心を動かされた。
「いま」このシリーズであること
展覧会が行われているのはコロナ後の日常が戻りつつあるタイミングだった。このタイミングは展覧会をやる側の人たちは狙っている。1 人で部屋に閉じこもる状態の反対に誰かと外で花を見ながら歩く状態がある。この状態遷移が今起きていることだ。ハーストがロックダウン中に 1 人でこもってこれらの絵を制作し、ロックダウン後、コロナ明けみたいなタイミングで絵が展示されている。いまこのシリーズで行われる展示は人々の感情や気分に合っていると思う。
絵と観客たち − 観客にとってどういう空間なのか
基本的にはお花見会場になっていた。1 人で来ている人もいるし誰かと来ている人もいる。誰かと展示をみるということ自体が当たり前でない状態だったので、展示室の状況自体が特別に見えた。人はなぜわざわざ美術館に絵を見にくのか?楽しいから、誰かと何かを共有したいから、お出かけしたいから。そこに桜のきれいな色の絵が並んでいる。お花見をしている。よかったね、としか言えない。閉じこもることを強いられるような状況が続く中で、観客たちがこういう空間を求めていて、それに応えているということの方が、絵が上手い下手よりも重要に思えた。